【書評】入社1年目から使える「評価される」技術

 こんばんは!

今回紹介していく本は、

『入社1年目から使える「評価される」技術』です。 

発刊こそ2012年ですが、その内容には古さを感じませんでした。

春から始まる新生活が不安な皆様、この一冊はいかがでしょうか?

 

目次

 

「評価される」技術

 本著では、タイトル通り上司や同僚に「評価される」技術を学べます。評価される側だけでなく、評価する側も経験されている著者の言葉には説得力がありました。「評価される」とはどういうことか?という点にも言及され、内容の理解しやすさにも配慮されていると感じました。 

 

新社会人となる方々へオススメ!

 本著を読むことで、会社の中で人間関係の構築・改善や仕事に取り組む方向性を改めて考えられるのではないでしょうか。特に、新社会人となる方々の不安解消に大いに役立ってくれるでしょう。新しく部下を持つ新上司の皆様や社内での人間関係に悩む方々にも本著はお勧めです。 

 

内容・構成

 本著は会社内での対人関係を築くうえでの道標となる1冊といえるでしょう。

本著は序文と以下のような5章によって構成されています。

  • 1章 評価される人になるための大原則
    • 評価される」とは?、評価されたいと思う自分とその周囲の人間
  • 2章 評価される人になるための上司とのコミュニケーション
    • 会社の上司ってどういう存在?何を考えている?
  • 3章 評価される人になるための習慣
    • どんなことを習慣化するとよいか 、どんなことができないか
  • 4章 評価される人になるための考え方
    • 感情との折り合いの付け方、そのための考え方
  • 5章 評価される人になるための行動
    • 具体的な行動のための指針 

 

私は何を学んだか?

 評価される=快く受け入れられる、と言い換えられるかもしれません。得点稼ぎのゴマスリなどではなく、受け入れられるための考え方や行動指針を本著から学べます。

 また本著にて学んだ、相手のために行動するという考え方は、仕事という枠に収まるものではないと思います。相手の立場に立って行動することが評価につながるという仕組みは、職場に限らない普遍的な道理といえるでしょう

 

最後に

 上司との関係を築くにあたって不安な方やどのような考え方で仕事に取り組むか迷っている方、本著を読むことはその不安や迷いを解消する力となるでしょう。

 皆様のよりよい社会人生活をお祈りしております!

 

数奇なアイルランドのおとぎ話

 

どうも武梨です!

コロナで外出が制限される昨今、

お子様への読み聞かせ、または読書に

この本はいかがでしょうか?

 

 

書名:夜ふけに読みたい数奇なアイルランドのおとぎ話

監修:長島真以於

編訳:加藤洋子+吉澤康子+和爾桃子

挿絵:アーサー・ラッカム

 

目次 

 

 感想

 本著はアイルランドのお話、ケルトの世界の短編集です。おとぎ話らしい示唆に富んだものもあり、神話的な荒唐無稽さもありと色々な短編が楽しめます。挿絵も素晴らしかったです。

 ただ、全9話でボリュームは少ないかなと思いました。以前読んだラテンアメリカ民話集は学問の資料といった形でしたが、この本は読み聞かせるための本といった趣でした。

 

各話あらすじ

小さな白い猫

 巨人にとらわれたお姫様を、王子が助けに行くお話。

王子は自分に甘く、度々困難に躓くのが人間らしくて面白い。

都度助けてくれる白い猫が頼もしい。

ものぐさな美しい娘とおばさんたち

 ものぐさな美しい娘が王子に見初められるお話。

王妃は娘に難題を与えるが、おばさんたちが助けてくれる。

ヤギ皮をまとう少年

 貧しい少年が、巨人から得た宝物を使って

王女と結婚するための困難に立ち向かう。

金の槍

 母と二人の子ども、アイルランドの美しさ、よくわからない

語れなくなった語り部

 語り部が語りのアイデアがわかなくて困ってるところを

みすぼらしい老人に出会うお話。

カレルの子トゥアンの物語

 マグ・ビレ修道院長フィニアが、異教徒トゥアンに改宗を求めにいく。

どうにか打ち解けた二人、トゥアンが語る身の上話とは?

フィンの少年時代

 フィン・マク・クウィルの少年時代からフィアナ戦士団長になるまでの物語。

ブランの誕生

 フィンと忠犬ブランとシュケーオンが出会うお話。神話らしい荒唐無稽さもあるが、

最終的にみんなハッピーエンドになったのが楽しい。

オシーンの母

 フィンが、後に勇敢な戦士となるオシーンと出会うお話。

十七歳にして起つー皇帝フリードリッヒ二世の生涯

 こんばんは!

 

 前回は、フリードリッヒ二世の出生からオットーがシチリア王国に侵攻したところまで読みました。

 今回はドイツからの使節団がフリードリッヒの下を訪れてから、法王が代替わりするまで読み進めました。フリードリッヒの戴冠式があり、各国の要人が亡くなり、世代交代感の強い章となっていました。これからフリードリッヒの人生が激しさを増していくのかと思うと、期待が高まります!

 

 

目次

 

第二章 十七歳にして起つ

出来事年表

1212           フリードリッヒが北伊横断する

      ハインリッヒ七世がシチリア王に即位する

1214.07.27 ブーヴィーヌの戦い 

1215.06.15 マグナ・カルタ調印

1215.07.25 フリードリッヒがジーグフリードにより神聖ローマ帝国皇帝冠を戴冠する

1215.11.02 ラテラノ公会議にて異端弾劾とザクセン公オットー再破門が決議される

1216.夏      インノケンティウス三世が死去し、ホノリウス三世が新法王に選出される 

1216.10.18 英国王ジョンが死去する

1218.05.19 オットーが死去する 

 

ドイツへの旅

 シチリア王国に侵攻していたオットーがドイツに帰ったのと入れ替わるように、

使節団が訪れる。 使節団の目的は、オットーではなくフリードリッヒにドイツを治めてもらうことだった。

 使節団の求めに応じて、フリードリッヒはドイツへ向かうことを決める。ドイツ皇帝とシチリア王の兼任がタブーであるため、ドイツを治めるにあたって、ハインリッヒはシチリア王位を息子ハインリッヒに譲る。兵もない金もないフリードリッヒが、王位まで失ってやっと皇帝位を授かる旅が始まった。この旅には他にも以下の目的があった。

  1. インノケンティウスの支持を確実にする 
  2. 南西ドイツの封建諸侯と大司教の支持を確実にする 
  3. フランス王を味方につける 

 ドイツへ向かう前にローマ法王への謁見に向かう。ローマ法王から支援を受けることが目的である。支援の内容はドイツまでの旅費と公の支持だった。なお、後見人と被後見人の関係にあるにも関わらず、フリードリッヒとインノケンティウスはこの時が初対面だったとのこと。 後見料として金300㎏をも要求していたのにとんでもない薄情さではなかろうか。 

  ハインリッヒはシチリア王国からドイツへ向かう過酷な旅が始まる。当然オットーからの妨害の手も迫るし、祖父と父の行いによって道中にあるミラノに住む人々に恨まれてもいる。

 

ドイツでの巡行

 フリードリッヒはコンスタンツで休養を取った後、ドイツ有力者からの支持を取り付ける旅に出る。偉大な皇帝フリードリッヒ1世を想起させるフリードリッヒは、ドイツの有力者たちに好意を持って迎えられた。また、軍事力を持たないフリードリッヒはその人格を評価され、随行した司祭ベラルドによってローマ法王の支持、当人の教養の高さを説かれた。

 ハインリッヒは大司教ジーグフリードにより神聖ローマ帝国皇帝冠を授かる。このことにいち早くフランス王フィリップが反応した。フィリップはフランス王国から英国勢力を一掃したかったのだが、英国と協力関係にあるオットーが邪魔であった。軍才のないフィリップにとって、強い軍事力を持つオットーは強敵だったのである。フィリップは息子ルイを使者として、ドイツ・フランス同盟を結んだ。さらにフリードリッヒには多額の支度金さえ与えたのである。 

 

ブーヴィーヌの戦い、マグナ・カルタ 

 ブーヴィーヌの戦いにて、フィリップがオットーとジョンに勝利した。勝利の結果として、ノルマンディー地方から英国勢を一掃した 。フィリップは敗走するオットーの荷物から真の神聖ローマ帝国皇帝冠を見つけ、親切にもフリードリッヒに届けさえした。フリードリッヒは何故こうも周囲の人間に好かれ、親切にされるのだろうか?

 結局、オットーはフリードリッヒに戦わずして負けてしまった。オットーには強力な軍事力があり、軍才に欠けるフィリップに対して有利であった。しかし、それよりもはるかに軍才の欠落したジョンが足を引っ張る形になった。ジョンはあまりにも弱かったが、オットーは血縁関係のあるジョンの頼みを断れなかった。

 ジョンが敗走し、戦費として高額課税されていた英国民には不満が募っていた。かくして、ジョンは王権の縮小と諸侯の権利拡大を認めた「マグナ・カルタ」に調印せざるを得なかった。大憲章も所詮は税制という金にまつわる取り決めであった。 

 

新法王ホノリウス三世 

 フィリップから届けられた真の皇帝冠による戴冠式をフリードリッヒが済ませた後、十字軍遠征を確約され安堵したのかインノケンティウスが亡くなった。その時、ちょうど法王庁枢機卿一同は避暑地ペルージアにいたため、新しい法王の選定はスムーズに決まった。新しい法王はホノリウス三世が選出された。ホノリウスは異端派壊滅と聖都奪還を夢見ていた。

 法王庁のあるローマは暑く、不潔なため、避暑地にいくが慣例となっていた。また、キリスト教徒は、入浴を古代ローマ人の悪習として軽蔑していた。 古代ローマ人を嫌い、都市システムも入浴習慣も排斥した結果、不衛生という最悪の事態が蔓延することになる。 

「幼少時代」『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』

こんばんは!

 

新しい本を読み始めました!

 

皇帝フリードリッヒ二世の生涯という本です。

 

前回のエッセイから一転、今回は歴史モノの本です。

歴史の偉人たちの人生にどのようなイベントが起きたのか、

その背景には何があったのか、知ることができたら面白いなと思います。

 

目次

  

第一章 幼少時代

出来事年表

1194.12.26 フリードリッヒがイタリア・イエージで生まれる 

1197.09.28 父ハインリッヒ急死する

1198.05      フリードリッヒがシチリア王に即位する(当時3歳) 

1198.11       母コスタンツァ死去する  

1208.12.26 フリードリッヒが成人を宣言する

1209.08.15 フリードリッヒ、コンスタンツァと結婚する

1209.10      戴冠式により、オットーが正式に神聖ローマ帝国皇帝となる

                   その後、オットーはシリア王侵攻を開始する

1210.10      インノケンティウス、オットーを破門する

1211           オットー、シチリア王国から撤退する

 

出生

 フリードリッヒとコンスタンツァの実子であることの証明のために貴族婦人を出産に立ち会わせた。時代を感じる方法だが、DNA鑑定なんて存在ので当然か。やはり血縁の重要性を強く意識させられる。貴族の子どもだと騙る不届き者の出現が世間に与える混乱は計り知れないのだろう。 

 ちなみにこの時母コンスタンツァは40歳で初産だったという。現代的価値観からしても高齢出産である。約4年後に亡くなるコンスタンツァであるが、やはり身体的負担が激しかったのだろうか。

 

両親なき後

 遺されたフリードリッヒはインノケンティウスの後見を受ける。中世欧州の最高権力ともいえるローマ法王による後見となれば申し分ないのだろう。しかし、その後見料として300kgもの金を要求するとは、生臭坊主という言葉が頭をよぎる。成人するまでの後見ということは、フリードリッヒが当時4歳であるから20歳までの15年前後を想定していた。しかし当時の風習では遅くとも17歳までには成人となるそうで、10年程度の後見だということだ。なんの参考にもならないが、現在は6百万円/kg程なので金300㎏といえば18億円になる。10年で18億円とは!

 

市井に学ぶ

 フリードリッヒはその後パレルモの市井にて学び生きる。実は地位のある人が市井に生きるというとバカ殿を連想してほくそ笑んだ。とくに地位を隠したりはしなかったらしいが。

 なお、貴人らしい振る舞いもしたとのことだ。家臣というべき存在に拉致されそうになった時、発狂したかのごとく身をかきむしった。下位の存在がその身に手をかけることに激憤したものと思われる。 

 

イバル、オットー  

 ザクセン公オットーは長きに渡りフリードリッヒのライバルになる。オットーは、神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式後、即座にイタリア攻めを開始する。トスカーナからサレルノまで次々と占拠していく。元々イタリアを攻めないという約束を交わしていたこともあり、インノケンティウスは激怒しオットーを破門した。

 順調に侵攻した後リゾートを楽しんでいたオットーだったが、本拠地ドイツでの反乱を無視できなくなりシチリア王国から撤退する軍事の才覚はあったようだが、人望はなかったオットーの哀れさが際立つ。

 

ここまでを読んで

 フリードリッヒの過酷な家庭が悲しい。物心つく前に両親を失っている。後見人となったインノケンティウスもフリードリッヒに関心はなかった。しかし、パレルモの市井で強くたくましく育ったフリードリッヒを見ると、家庭環境など関係ないかのようだ。貴人らしい振る舞いも覚え、文武両道であり、自立心が強い。

 また、フリードリッヒは味方にも恵まれている。妻コンスタンツァも司祭パレルモもインノケンティウスによって引き合わされているが、二人とも協力な見方となっている。幸運と言わざるを得ないだろう。

 ライバルとなるオットーの性質も面白い。約束を反故にするところなどいかにも人望を集められそうにない。中世の約束などあってなきが如しかもしれないが、シチリア王国を攻めきる自信があったのだろうか? 

 まさしく少年漫画の主人公のようなフリードリッヒと敵役のようなオットーの関係が劇的だった。これからのフリードリッヒ少年の冒険が気になるばかりだ。

「死者を食う蟹」『黒雲の下で卵をあたためる』

こんばんは!

 

世間はコロナウィルスやインフルエンザといった、感染力の強い疾病に

てんてこ舞いですね。

確度の高い情報を見つけて予防を徹底することが大切です。

 

引き続き『黒雲の下で卵をあたためる』の感想をまとめていきます。

 

本著につきましては、この記事が最終回となります。

 

目次

 

「家について」

 家とは人の心のようだ。外側からは内側が分からない。驚くとははっきりと違和感を覚えること、という的確な言い換えをみると流石は言葉のプロフェッショナルと思う。烏滸がましいだろうが。不思議とは、変な無駄、合理的でない様という言い換えも妙。 

 人に見せる、人を招くためのインテリアとは対極にあるのがオタク部屋だと著者はいう。オタク部屋のように、住人による住人だけの為の部屋など他には胎内くらいだと言われてニヤリとしてしまった。やがて必ず出ていかないければならないという言及も含めてニヒルだ。 

 

「死者を食う蟹」

 定番の話題「食べられないもの」から始まる、蟹に関する口承や詩についてのエッセイ。ちなみに著者は雑食な上に量を食べるとのこと。本話の中で語られたカマンベールチーズの話も合わせて、著者に対してものすごく親近感が湧いた。作家という近づき難い神秘的な職業にも関わらず、チャーミングというか俗っぽいというか、不思議な魅力のお陰で親しみやすく感じる。 

 戦争の後に取れる蟹は美味しいらしい。戦死者を食った蟹の身が肥える、という理屈の口承である。本エッセイでは、この口承を元にした会田綱雄の詩、「伝承」「一つの体験として」に言及している。死者を食らった蟹を売って命をつなぎ、自分たちが死んだらその肉体を湖に投げ捨て蟹に食わせて欲しい、と歌うその詩は貧しいながらも家族を思う優しさに溢れている。 

 なお、蟹売りたちはこの蟹を食べないらしい。血縁ある故人に加え、無辜の戦死者を食らった蟹は食べられないだろう。 

 

「背・背なか・背後」

 その人の存在を完全に排除して広がる背後という空間に彼岸をみる。その背後を確認するための道具である鏡の神秘性。 

 著者の、子どもの内は背後を利用した遊びが多いとい指摘にはなるほどと感心した。背後の不安感、背後から接触することのタブー感が手軽な遊びとして適しているのだろう。 

 

「別離」

 著者による梅酒作成講座である。というのは嘘。著者の実家にあるという梅の木から垣間見える家族の心情。落果という、時を経た結果となる自然の姿と人間の手でもいだ果実の姿の対比が面白かった。 

 落葉・落果を引き起こす、離層の形成という老化現象。もげ落ちる、というと甲殻類の脚が自切によって放棄されることを連想する。円熟の結果となる離層と緊急回避のための自切では真逆のような気がして面白かった。 

 落葉という自然現象に、詩の改行やリズムを見出す描写が素敵だ。 

 このエッセイは、著者の家庭的な部分から入り、過去の恋愛という人間的な部分にも触れている。作家・詩人としての言及もあり、最後には死生観も緩やかに描写されている。何もかもが盛り込まれたこのエッセイが本書の締めであることは、なんとなくしっくりくる。帯で触れられているのも本エッセイで、納得してしまった。 

 

読み終えて 

 一話完結形式だと感想書きやすくて楽しい。数話読んで感想書いてをコンスタントに繰り返したい。 

 読み終えるまで1ヶ月半かかってしまったが2ヶ月はかからなかったのでよし! 

 もっとたくさん本を読みたい!

「ちーくーみーまー」『黒雲の下で卵をあたためる』

 こんばんは!

 

お正月気分も抜けて普段の生活リズムに引き戻されていく昨今ですが、

皆様ご機嫌いかがでしょうか。

 

引き続き『黒雲の下で卵をあたためる』の感想をまとめていきます。

 

 

目次

 

「ちーくーみーまー」 

 子どもの感性に言及されたエッセイ。詩人であり母である著者の観点が私にとっては新鮮で面白かった。初めてタイトルを見た際は方言か何かかと思った。ホラーのような印象を受けたが小さな子どもの口から出た架空の存在(子どもからすれば実在するかもしれない)らしい。 

 小さな子どもと触れ合った経験が少ないのでよく分からないが、子どもという存在は独自の時間感覚で生きているらしい。単純な音や動作の繰り返しを意外なほど好んだり、昨日という言葉でかなり以前を指したりする。 

 正直に言うと、私にはよく分からないエッセイだった。弟妹もいなければ小さな親戚とも交流がなかったので、子どもと言う存在が不鮮明だ。なんとなく、か弱いので守られるべき存在として認識しているのみである。

 しかし、まったく新しいものに触れられるのも読書の醍醐味だと思う。本を読むことで不明な存在を柔軟に受け入れられる私になりたい。 

  

「蝿がうなるとき、そのときわたしは」

 蝿が主人公のエッセイ。ある冬の日、著者がうとうと居眠りしていると、1匹の蝿の羽音に叩き起こされた。蝿の羽音によって、蝿の存在に気づくと共に自己の存在に気づく著者はなんと言う感性の豊かさか。 

 エミリー・ディキンソン。米、詩人。死の瞬間とそこから始まる死後の世界について歌う詩人。体験できるはずもない死の瞬間を歌うとは驚かされる 

 

「縫い目と銀髪」

 前話で蝿の羽音から自己の存在を見つめたかと思えば、この話は冬服が3パターンしかないと言う、なんとも現実的で凡俗な導入がなされる。著者と私との距離がグッと近くなるような嬉しさを覚えてしまう。 

 流行と言う、自分以外の大きな存在に習う不安さ。自分で自分でない誰かに成り済まそうとする疑念、強迫観念。言ってることはよくわかるがそこまで考えたことはなかった。確かに雑誌に乗ってる誰かを見てこんな感じの服が欲しいなあと買い物をする。著者と同じように、私自身も服装など小綺麗であれば何でもいいだろうと考えている。同じ考えを元にこの著者は何と深く思索を進めていくのだろう。 

「お洒落をしないのは、泥棒よりひどい」

「縫い目と銀髪」195頁(小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』岩波現代文庫、2019年、191頁以下)

 宇野千代氏の作品からの引用らしいが詳細に触れられていなかった。

このフレーズには恥じ入るばかりだ。どういう文脈で発せられたのか、是非知りたい。 

 

終わりに

 おそらく次の記事が本書に関する最後の記事になるでしょう。

12/15に刊行された200p少々の本書ですが、

読み切るまで1か月もかかったことは予想外でした!

 

 自分が本を読み、感想をかけるペースを把握できたら

ブログを書くという趣味をもっと楽しめるようになると思います!

 

 それでは!

連詩の時間

こんばんは!

 

三ヶ日も終わり、徐々に通常の生活に戻っていくのが物悲しく感じる昨今です。

 

本日も引き続き、『黒雲の下で卵をあたためる』を読んだ感想を記事にしていきます。

 それぞれのエッセイのタイトルをそのまま感想の見出しとしました。

 

目次

 

連詩の時間

 プロの詩人が詩の一形態である連詩を食わず嫌いしているのは面白い。そういう作家は多いらしいというのも実に人間らしい。 

 オランダ語には水平線を意味する語が4つあるらしい。異国語には訳せない、その国だけの言葉というものが少なからずあるという。そういった語をまとめた本がしばらく前に話題になっていたが読めず仕舞いになった。なんというタイトルだったか。 

 連詩には通常の文章よりも行間が深く断絶している。書き手が異なるのだから当然だと思う。読み手の想像する余地がより大きくなるということだとすれば、連詩の方が受け取り方に幅が出るのだろうか。 

 

かたじけない

 久生十蘭の「親子像」に言及するエッセイ。母親に異常なほど敬愛、忠誠を示す息子が主人公の小説。著者の親子愛や家族観が垣間見える。 

 かたじけないという言葉は恥じるとか辱めるという意味である。自分を徹底的に卑下し、対象に感謝などをしめるという仕組みがある。 

 北原白州「雀の生活」雀への考察が綴られている。 

P154「その丸みを帯びた小さい身体が、集団で舞い上がったり舞い降りたり。そのたびに、誰かが握り締めていた祝福が、ばらばらっと地上にばらまかれるような思いを持つ。」 

 

詩の不可侵性

 優秀な翻訳者の登場で身近になった海外の詩について。海外作品の読みづらさはやはり文化的背景を共有していないことにある。蝉の鳴き声をノイズと捉えるような、文化的断絶があるらしい。文学の中でも詩という観念的な世界でそれは顕著になると思われる。 

 この文化的断絶は異なる国の間にのみ生じるものではない。古典など遠い昔に綴られた作品に対しても同様の断絶がある(別の国になっていることもあるが)。 

 メーヴ・マガキアン。アイルランドの女性詩人。詩を書く動機は誰も理解できないだろうから、とのこと。著者の求める曖昧でない、厳密な「わからなさ」が彼女の詩にはある。 

 詩人として詩の「わかりやすさ」を追求するばかりでなく「わからなさ」を追求しても良いのではないか、という意見が面白い。 

 

きみとしろみ

 クレア・キーガンの『青い野を歩く』に収録された「別れの贈りもの」に言及するエッセイ。著者の考察、解説的な内容でもある。詩の解説は読んだことがなかったので興味深く読めたし、楽しめた。 

 英文の中で、人物を登場させないことで主人公と居るべき人物との隔たりを表すのが面白い。また背景をより強く印象づけられる。表現しないことでより強く表現するという描写が多い。『青い野を歩く』、ぜひ読んで見たくなった。 

 タイトル「きみとしろみ」と本文の内容が一見乖離しているようにも見受けられるが、読んでみると驚く。

 

終わりに

 ブログの為にメモしながら本を読む行為は慣れないこともあり、年末年始で忙しかったりと中々読み進まなかったです。2020年はもっとたくさん本を読んで記事を書いていきたいです。

 それでは!