「死者を食う蟹」『黒雲の下で卵をあたためる』

こんばんは!

 

世間はコロナウィルスやインフルエンザといった、感染力の強い疾病に

てんてこ舞いですね。

確度の高い情報を見つけて予防を徹底することが大切です。

 

引き続き『黒雲の下で卵をあたためる』の感想をまとめていきます。

 

本著につきましては、この記事が最終回となります。

 

目次

 

「家について」

 家とは人の心のようだ。外側からは内側が分からない。驚くとははっきりと違和感を覚えること、という的確な言い換えをみると流石は言葉のプロフェッショナルと思う。烏滸がましいだろうが。不思議とは、変な無駄、合理的でない様という言い換えも妙。 

 人に見せる、人を招くためのインテリアとは対極にあるのがオタク部屋だと著者はいう。オタク部屋のように、住人による住人だけの為の部屋など他には胎内くらいだと言われてニヤリとしてしまった。やがて必ず出ていかないければならないという言及も含めてニヒルだ。 

 

「死者を食う蟹」

 定番の話題「食べられないもの」から始まる、蟹に関する口承や詩についてのエッセイ。ちなみに著者は雑食な上に量を食べるとのこと。本話の中で語られたカマンベールチーズの話も合わせて、著者に対してものすごく親近感が湧いた。作家という近づき難い神秘的な職業にも関わらず、チャーミングというか俗っぽいというか、不思議な魅力のお陰で親しみやすく感じる。 

 戦争の後に取れる蟹は美味しいらしい。戦死者を食った蟹の身が肥える、という理屈の口承である。本エッセイでは、この口承を元にした会田綱雄の詩、「伝承」「一つの体験として」に言及している。死者を食らった蟹を売って命をつなぎ、自分たちが死んだらその肉体を湖に投げ捨て蟹に食わせて欲しい、と歌うその詩は貧しいながらも家族を思う優しさに溢れている。 

 なお、蟹売りたちはこの蟹を食べないらしい。血縁ある故人に加え、無辜の戦死者を食らった蟹は食べられないだろう。 

 

「背・背なか・背後」

 その人の存在を完全に排除して広がる背後という空間に彼岸をみる。その背後を確認するための道具である鏡の神秘性。 

 著者の、子どもの内は背後を利用した遊びが多いとい指摘にはなるほどと感心した。背後の不安感、背後から接触することのタブー感が手軽な遊びとして適しているのだろう。 

 

「別離」

 著者による梅酒作成講座である。というのは嘘。著者の実家にあるという梅の木から垣間見える家族の心情。落果という、時を経た結果となる自然の姿と人間の手でもいだ果実の姿の対比が面白かった。 

 落葉・落果を引き起こす、離層の形成という老化現象。もげ落ちる、というと甲殻類の脚が自切によって放棄されることを連想する。円熟の結果となる離層と緊急回避のための自切では真逆のような気がして面白かった。 

 落葉という自然現象に、詩の改行やリズムを見出す描写が素敵だ。 

 このエッセイは、著者の家庭的な部分から入り、過去の恋愛という人間的な部分にも触れている。作家・詩人としての言及もあり、最後には死生観も緩やかに描写されている。何もかもが盛り込まれたこのエッセイが本書の締めであることは、なんとなくしっくりくる。帯で触れられているのも本エッセイで、納得してしまった。 

 

読み終えて 

 一話完結形式だと感想書きやすくて楽しい。数話読んで感想書いてをコンスタントに繰り返したい。 

 読み終えるまで1ヶ月半かかってしまったが2ヶ月はかからなかったのでよし! 

 もっとたくさん本を読みたい!