「ちーくーみーまー」『黒雲の下で卵をあたためる』

 こんばんは!

 

お正月気分も抜けて普段の生活リズムに引き戻されていく昨今ですが、

皆様ご機嫌いかがでしょうか。

 

引き続き『黒雲の下で卵をあたためる』の感想をまとめていきます。

 

 

目次

 

「ちーくーみーまー」 

 子どもの感性に言及されたエッセイ。詩人であり母である著者の観点が私にとっては新鮮で面白かった。初めてタイトルを見た際は方言か何かかと思った。ホラーのような印象を受けたが小さな子どもの口から出た架空の存在(子どもからすれば実在するかもしれない)らしい。 

 小さな子どもと触れ合った経験が少ないのでよく分からないが、子どもという存在は独自の時間感覚で生きているらしい。単純な音や動作の繰り返しを意外なほど好んだり、昨日という言葉でかなり以前を指したりする。 

 正直に言うと、私にはよく分からないエッセイだった。弟妹もいなければ小さな親戚とも交流がなかったので、子どもと言う存在が不鮮明だ。なんとなく、か弱いので守られるべき存在として認識しているのみである。

 しかし、まったく新しいものに触れられるのも読書の醍醐味だと思う。本を読むことで不明な存在を柔軟に受け入れられる私になりたい。 

  

「蝿がうなるとき、そのときわたしは」

 蝿が主人公のエッセイ。ある冬の日、著者がうとうと居眠りしていると、1匹の蝿の羽音に叩き起こされた。蝿の羽音によって、蝿の存在に気づくと共に自己の存在に気づく著者はなんと言う感性の豊かさか。 

 エミリー・ディキンソン。米、詩人。死の瞬間とそこから始まる死後の世界について歌う詩人。体験できるはずもない死の瞬間を歌うとは驚かされる 

 

「縫い目と銀髪」

 前話で蝿の羽音から自己の存在を見つめたかと思えば、この話は冬服が3パターンしかないと言う、なんとも現実的で凡俗な導入がなされる。著者と私との距離がグッと近くなるような嬉しさを覚えてしまう。 

 流行と言う、自分以外の大きな存在に習う不安さ。自分で自分でない誰かに成り済まそうとする疑念、強迫観念。言ってることはよくわかるがそこまで考えたことはなかった。確かに雑誌に乗ってる誰かを見てこんな感じの服が欲しいなあと買い物をする。著者と同じように、私自身も服装など小綺麗であれば何でもいいだろうと考えている。同じ考えを元にこの著者は何と深く思索を進めていくのだろう。 

「お洒落をしないのは、泥棒よりひどい」

「縫い目と銀髪」195頁(小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』岩波現代文庫、2019年、191頁以下)

 宇野千代氏の作品からの引用らしいが詳細に触れられていなかった。

このフレーズには恥じ入るばかりだ。どういう文脈で発せられたのか、是非知りたい。 

 

終わりに

 おそらく次の記事が本書に関する最後の記事になるでしょう。

12/15に刊行された200p少々の本書ですが、

読み切るまで1か月もかかったことは予想外でした!

 

 自分が本を読み、感想をかけるペースを把握できたら

ブログを書くという趣味をもっと楽しめるようになると思います!

 

 それでは!