「幼少時代」『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』

こんばんは!

 

新しい本を読み始めました!

 

皇帝フリードリッヒ二世の生涯という本です。

 

前回のエッセイから一転、今回は歴史モノの本です。

歴史の偉人たちの人生にどのようなイベントが起きたのか、

その背景には何があったのか、知ることができたら面白いなと思います。

 

目次

  

第一章 幼少時代

出来事年表

1194.12.26 フリードリッヒがイタリア・イエージで生まれる 

1197.09.28 父ハインリッヒ急死する

1198.05      フリードリッヒがシチリア王に即位する(当時3歳) 

1198.11       母コスタンツァ死去する  

1208.12.26 フリードリッヒが成人を宣言する

1209.08.15 フリードリッヒ、コンスタンツァと結婚する

1209.10      戴冠式により、オットーが正式に神聖ローマ帝国皇帝となる

                   その後、オットーはシリア王侵攻を開始する

1210.10      インノケンティウス、オットーを破門する

1211           オットー、シチリア王国から撤退する

 

出生

 フリードリッヒとコンスタンツァの実子であることの証明のために貴族婦人を出産に立ち会わせた。時代を感じる方法だが、DNA鑑定なんて存在ので当然か。やはり血縁の重要性を強く意識させられる。貴族の子どもだと騙る不届き者の出現が世間に与える混乱は計り知れないのだろう。 

 ちなみにこの時母コンスタンツァは40歳で初産だったという。現代的価値観からしても高齢出産である。約4年後に亡くなるコンスタンツァであるが、やはり身体的負担が激しかったのだろうか。

 

両親なき後

 遺されたフリードリッヒはインノケンティウスの後見を受ける。中世欧州の最高権力ともいえるローマ法王による後見となれば申し分ないのだろう。しかし、その後見料として300kgもの金を要求するとは、生臭坊主という言葉が頭をよぎる。成人するまでの後見ということは、フリードリッヒが当時4歳であるから20歳までの15年前後を想定していた。しかし当時の風習では遅くとも17歳までには成人となるそうで、10年程度の後見だということだ。なんの参考にもならないが、現在は6百万円/kg程なので金300㎏といえば18億円になる。10年で18億円とは!

 

市井に学ぶ

 フリードリッヒはその後パレルモの市井にて学び生きる。実は地位のある人が市井に生きるというとバカ殿を連想してほくそ笑んだ。とくに地位を隠したりはしなかったらしいが。

 なお、貴人らしい振る舞いもしたとのことだ。家臣というべき存在に拉致されそうになった時、発狂したかのごとく身をかきむしった。下位の存在がその身に手をかけることに激憤したものと思われる。 

 

イバル、オットー  

 ザクセン公オットーは長きに渡りフリードリッヒのライバルになる。オットーは、神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式後、即座にイタリア攻めを開始する。トスカーナからサレルノまで次々と占拠していく。元々イタリアを攻めないという約束を交わしていたこともあり、インノケンティウスは激怒しオットーを破門した。

 順調に侵攻した後リゾートを楽しんでいたオットーだったが、本拠地ドイツでの反乱を無視できなくなりシチリア王国から撤退する軍事の才覚はあったようだが、人望はなかったオットーの哀れさが際立つ。

 

ここまでを読んで

 フリードリッヒの過酷な家庭が悲しい。物心つく前に両親を失っている。後見人となったインノケンティウスもフリードリッヒに関心はなかった。しかし、パレルモの市井で強くたくましく育ったフリードリッヒを見ると、家庭環境など関係ないかのようだ。貴人らしい振る舞いも覚え、文武両道であり、自立心が強い。

 また、フリードリッヒは味方にも恵まれている。妻コンスタンツァも司祭パレルモもインノケンティウスによって引き合わされているが、二人とも協力な見方となっている。幸運と言わざるを得ないだろう。

 ライバルとなるオットーの性質も面白い。約束を反故にするところなどいかにも人望を集められそうにない。中世の約束などあってなきが如しかもしれないが、シチリア王国を攻めきる自信があったのだろうか? 

 まさしく少年漫画の主人公のようなフリードリッヒと敵役のようなオットーの関係が劇的だった。これからのフリードリッヒ少年の冒険が気になるばかりだ。