十七歳にして起つー皇帝フリードリッヒ二世の生涯
こんばんは!
前回は、フリードリッヒ二世の出生からオットーがシチリア王国に侵攻したところまで読みました。
今回はドイツからの使節団がフリードリッヒの下を訪れてから、法王が代替わりするまで読み進めました。フリードリッヒの戴冠式があり、各国の要人が亡くなり、世代交代感の強い章となっていました。これからフリードリッヒの人生が激しさを増していくのかと思うと、期待が高まります!
目次
第二章 十七歳にして起つ
出来事年表
1212 フリードリッヒが北伊横断する
ハインリッヒ七世がシチリア王に即位する
1214.07.27 ブーヴィーヌの戦い
1215.06.15 マグナ・カルタ調印
1215.07.25 フリードリッヒがジーグフリードにより神聖ローマ帝国皇帝冠を戴冠する
1215.11.02 ラテラノ公会議にて異端弾劾とザクセン公オットー再破門が決議される
1216.夏 インノケンティウス三世が死去し、ホノリウス三世が新法王に選出される
1216.10.18 英国王ジョンが死去する
1218.05.19 オットーが死去する
ドイツへの旅
シチリア王国に侵攻していたオットーがドイツに帰ったのと入れ替わるように、
使節団が訪れる。 使節団の目的は、オットーではなくフリードリッヒにドイツを治めてもらうことだった。
使節団の求めに応じて、フリードリッヒはドイツへ向かうことを決める。ドイツ皇帝とシチリア王の兼任がタブーであるため、ドイツを治めるにあたって、ハインリッヒはシチリア王位を息子ハインリッヒに譲る。兵もない金もないフリードリッヒが、王位まで失ってやっと皇帝位を授かる旅が始まった。この旅には他にも以下の目的があった。
-
インノケンティウスの支持を確実にする
-
南西ドイツの封建諸侯と大司教の支持を確実にする
-
フランス王を味方につける
ドイツへ向かう前にローマ法王への謁見に向かう。ローマ法王から支援を受けることが目的である。支援の内容はドイツまでの旅費と公の支持だった。なお、後見人と被後見人の関係にあるにも関わらず、フリードリッヒとインノケンティウスはこの時が初対面だったとのこと。 後見料として金300㎏をも要求していたのにとんでもない薄情さではなかろうか。
ハインリッヒはシチリア王国からドイツへ向かう過酷な旅が始まる。当然オットーからの妨害の手も迫るし、祖父と父の行いによって道中にあるミラノに住む人々に恨まれてもいる。
ドイツでの巡行
フリードリッヒはコンスタンツで休養を取った後、ドイツ有力者からの支持を取り付ける旅に出る。偉大な皇帝フリードリッヒ1世を想起させるフリードリッヒは、ドイツの有力者たちに好意を持って迎えられた。また、軍事力を持たないフリードリッヒはその人格を評価され、随行した司祭ベラルドによってローマ法王の支持、当人の教養の高さを説かれた。
ハインリッヒは大司教ジーグフリードにより神聖ローマ帝国皇帝冠を授かる。このことにいち早くフランス王フィリップが反応した。フィリップはフランス王国から英国勢力を一掃したかったのだが、英国と協力関係にあるオットーが邪魔であった。軍才のないフィリップにとって、強い軍事力を持つオットーは強敵だったのである。フィリップは息子ルイを使者として、ドイツ・フランス同盟を結んだ。さらにフリードリッヒには多額の支度金さえ与えたのである。
ブーヴィーヌの戦い、マグナ・カルタ
ブーヴィーヌの戦いにて、フィリップがオットーとジョンに勝利した。勝利の結果として、ノルマンディー地方から英国勢を一掃した 。フィリップは敗走するオットーの荷物から真の神聖ローマ帝国皇帝冠を見つけ、親切にもフリードリッヒに届けさえした。フリードリッヒは何故こうも周囲の人間に好かれ、親切にされるのだろうか?
結局、オットーはフリードリッヒに戦わずして負けてしまった。オットーには強力な軍事力があり、軍才に欠けるフィリップに対して有利であった。しかし、それよりもはるかに軍才の欠落したジョンが足を引っ張る形になった。ジョンはあまりにも弱かったが、オットーは血縁関係のあるジョンの頼みを断れなかった。
ジョンが敗走し、戦費として高額課税されていた英国民には不満が募っていた。かくして、ジョンは王権の縮小と諸侯の権利拡大を認めた「マグナ・カルタ」に調印せざるを得なかった。大憲章も所詮は税制という金にまつわる取り決めであった。
新法王ホノリウス三世
フィリップから届けられた真の皇帝冠による戴冠式をフリードリッヒが済ませた後、十字軍遠征を確約され安堵したのかインノケンティウスが亡くなった。その時、ちょうど法王庁の枢機卿一同は避暑地ペルージアにいたため、新しい法王の選定はスムーズに決まった。新しい法王はホノリウス三世が選出された。ホノリウスは異端派壊滅と聖都奪還を夢見ていた。
法王庁のあるローマは暑く、不潔なため、避暑地にいくが慣例となっていた。また、キリスト教徒は、入浴を古代ローマ人の悪習として軽蔑していた。 古代ローマ人を嫌い、都市システムも入浴習慣も排斥した結果、不衛生という最悪の事態が蔓延することになる。