連詩の時間

こんばんは!

 

三ヶ日も終わり、徐々に通常の生活に戻っていくのが物悲しく感じる昨今です。

 

本日も引き続き、『黒雲の下で卵をあたためる』を読んだ感想を記事にしていきます。

 それぞれのエッセイのタイトルをそのまま感想の見出しとしました。

 

目次

 

連詩の時間

 プロの詩人が詩の一形態である連詩を食わず嫌いしているのは面白い。そういう作家は多いらしいというのも実に人間らしい。 

 オランダ語には水平線を意味する語が4つあるらしい。異国語には訳せない、その国だけの言葉というものが少なからずあるという。そういった語をまとめた本がしばらく前に話題になっていたが読めず仕舞いになった。なんというタイトルだったか。 

 連詩には通常の文章よりも行間が深く断絶している。書き手が異なるのだから当然だと思う。読み手の想像する余地がより大きくなるということだとすれば、連詩の方が受け取り方に幅が出るのだろうか。 

 

かたじけない

 久生十蘭の「親子像」に言及するエッセイ。母親に異常なほど敬愛、忠誠を示す息子が主人公の小説。著者の親子愛や家族観が垣間見える。 

 かたじけないという言葉は恥じるとか辱めるという意味である。自分を徹底的に卑下し、対象に感謝などをしめるという仕組みがある。 

 北原白州「雀の生活」雀への考察が綴られている。 

P154「その丸みを帯びた小さい身体が、集団で舞い上がったり舞い降りたり。そのたびに、誰かが握り締めていた祝福が、ばらばらっと地上にばらまかれるような思いを持つ。」 

 

詩の不可侵性

 優秀な翻訳者の登場で身近になった海外の詩について。海外作品の読みづらさはやはり文化的背景を共有していないことにある。蝉の鳴き声をノイズと捉えるような、文化的断絶があるらしい。文学の中でも詩という観念的な世界でそれは顕著になると思われる。 

 この文化的断絶は異なる国の間にのみ生じるものではない。古典など遠い昔に綴られた作品に対しても同様の断絶がある(別の国になっていることもあるが)。 

 メーヴ・マガキアン。アイルランドの女性詩人。詩を書く動機は誰も理解できないだろうから、とのこと。著者の求める曖昧でない、厳密な「わからなさ」が彼女の詩にはある。 

 詩人として詩の「わかりやすさ」を追求するばかりでなく「わからなさ」を追求しても良いのではないか、という意見が面白い。 

 

きみとしろみ

 クレア・キーガンの『青い野を歩く』に収録された「別れの贈りもの」に言及するエッセイ。著者の考察、解説的な内容でもある。詩の解説は読んだことがなかったので興味深く読めたし、楽しめた。 

 英文の中で、人物を登場させないことで主人公と居るべき人物との隔たりを表すのが面白い。また背景をより強く印象づけられる。表現しないことでより強く表現するという描写が多い。『青い野を歩く』、ぜひ読んで見たくなった。 

 タイトル「きみとしろみ」と本文の内容が一見乖離しているようにも見受けられるが、読んでみると驚く。

 

終わりに

 ブログの為にメモしながら本を読む行為は慣れないこともあり、年末年始で忙しかったりと中々読み進まなかったです。2020年はもっとたくさん本を読んで記事を書いていきたいです。

 それでは!