黒雲の下で卵をあたためる:エッセイの感想

新年明けましておめでとうございます!

今年もよろしくお願いします!

 

年末は中々ブログ更新出来なかったのが残念でした。

2020年はアウトプットをガンガンしていきます!

 

本日は去年に引き続き読んでいる、

「黒雲の下で卵をあたためる」という書籍の感想をバラバラと書いてみました。

この記事を読んだ皆さんが本書に興味を持ってくだされば嬉しいです。

各見出しはエッセイのタイトルとなっています。

 

 

蝉と日本語

 絵本の翻訳をする際、機関車の立てる擬音を新鮮な日本語に移し替えたかったが、 

結果は平々凡々、濁音と半濁音で大小を表現する程度の差異に収まったとのこと。

 擬音を翻訳するのは非常に難しい。新鮮さを求めて奇抜な語を当てても

読み手に伝わらなければ元も子もない。

稀に小説や漫画の中で新鮮かつ当意即妙な擬音を発見すると感動さえする。

 

樹木のある風景

 樹木の不動性に感じる禁忌感に触れられている。 

実を着ける庭木を通して故人を偲び、また未来に思いを馳せる。

時間を超える不動性を感じた。 

 しかしながら、追記にてエッセイ冒頭で登場した街路樹が伐採されている。 

不動性の件で言及された街路樹が今はもうないというのは皮肉が効きすぎている。 

 

杖をめぐって

 杖は人間を支える時にも、罰する時にも用いられる不思議な存在だ。 

 杖の原型は、木の枝というどこにでもあるアーティファクトだ。花とは異なり落ちてもしばらくは地上に形を残す。皆さんにも覚えがあるかもしれないが、子どもたちが木の枝を見つければ喜んで振り回す。打って変わって榊の枝に白紙を付けたものは、婚礼などの儀式で神に供えられる。 

 室生犀星。作中で言及された詩人・小説家。子どものころ吃音だった影響か、文章に独特のフシがある。 悪文とさえ言われたとのこと。 

 

黒雲の下で卵をあたためる

 本書のタイトルにもなっているエッセイ。ギュンター・グラスの「黒い雲のバラード」について謳われている。 

 わずかな時間、雲が通り過ぎる間を切り取り、無限にも感じさせる描写。 

黒い雲という、不審や疑念の象徴のような存在が通り過ぎたわけだが、きっと何事もなかったのだろう。現実とはそんなものである。 

 私は黒い雲に不穏さを感じたが、著者は卵の方に不穏さを感じていた。中身が見えず、孵るまで判明しない卵に。孵るかどうかも不明な卵に。 

 

黒い瞳 

 男子禁制の「ハレム」で流行したコーヒー占いを体験した時のこと。 

 著者が出会った占い師は、結婚後40日の外出禁止を破り、

魔物に取り憑かれ占い師になった。 イスラム教の風習だろうか。 

 子どもの振る舞いは世界共通のものだ。原始的な振る舞いを見て感傷に浸ることもある。 

 

沃川へ 

 韓国近代詩人チョンジヨンの文学祭に招かれた著者。 

チョンジヨンは朝鮮戦争勃発後、何者かに拉致されたらしい。 

 詩人が詩を読んだ感想がよくわからないとは安心する。何事か、高度にモノを収めた人にのみ通じあう秘密の世界があったとしたら寂しくなる。実際にはあるのだろうが。 

 北原白秋らに愛された金素雲という詩人がいた